源義経 伝説の足跡を辿るゆかりの地・京都編|鞍馬山や生誕地、弁慶・静御前と出会った場所も

京都にある源義経ゆかりの地と伝説

平安時代に活躍した源義経。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では菅田将暉さんが演じられ、再びその生涯に注目が集まっています。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟であり、短いながらも波乱万丈に生きた源義経。義経が生まれ育った京都に今も残る、伝説の足跡を辿ってみませんか。

京都で誕生した源義経(幼名:牛若丸)

義経生誕の地「牛若丸誕生井」(京都市北区)

平治元年(1159年)、源義朝と常盤御前との間に生まれた源義経(幼名:牛若丸)。その生誕の地は、母・常盤御前が住んでいたと伝わる現在の京都市北区紫竹牛若町です。現地には、産湯に使ったという井戸「牛若丸誕生井」の石碑が建てられています。また、近くの松の下には「胞衣塚(えなづか)」もあり、義経のへその緒が埋められていると伝わっています。

牛若丸誕生井
住所:京都府京都市北区紫竹牛若町55−7
アクセス:京都市バス「常盤寺前」下車、徒歩約3分

義経が生まれて間もなく、父・義朝は平治の乱で敗死してしまいます。母・常磐は義経を連れて逃れ、後に公家の一条長成と再婚。そして義経は鞍馬寺に預けられました。

少年期の義経が修行をした鞍馬山

義経が修行した京都・鞍馬寺
鞍馬寺の仁王門

義経は7歳頃に鞍馬へ入山したとされており、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗りました。鞍馬では16歳頃までの少年期を修行しながら過ごしたといい、現地には様々な伝説が残されています。

義経が住んでいた「東光坊跡・義経公供養塔」

由岐神社の上手にあった東光坊に約10年間住んでいたという義経。跡地には、1940年(昭和15年)に建立された義経公供養塔があります。

義経が住んでいた京都・鞍馬寺の「東光坊跡・義経公供養塔」

また、東光坊のすぐ近くには、牛若丸の守り本尊だった地蔵菩薩が祀られている川上地蔵堂や、牛若丸に兵法を授けたと伝わる一条堀川の陰陽師・鬼一法眼(きいちほうげん)を祀った鬼一法眼社もあります。

いずれも九十九折参道にありますが、山門からケーブルカーに乗ると通り過ぎてしまうので、頑張って徒歩での散策をおすすめします。

修行へ向かう途中で喉を潤した「息つぎの水」

東光坊から本殿金堂を経て奥の院参道を進むと、義経が兵法修行に向かう際に喉の渇きを潤したと伝わる息つぎの水があり、今も水が湧き出ています。

鞍馬山を出る前に背比べをしたとされる「背比べ石」

鞍馬山を出る前に背比べをしたとされる「背比べ石」

後に鞍馬から奥州へ旅立つ際、名残惜しんだ義経が背くらべをしたという背くらべ石もあります。

跳躍の稽古をした木の根道

僧正ガ谷までの道中にある木の根道。岩盤が固いため、地下に根を張れない杉の根が地表を這っているそうです。若き牛若丸はここで跳躍の稽古をしたといいます。

義経が大天狗と出会い兵法を習ったという「僧正ガ谷」

謡曲の『鞍馬天狗』と牛若丸が出会ったといわれるのが僧正ガ谷です。義経は夜になるとこの僧正ヶ谷で大天狗から剣術を教わっていたという伝説があります。

義経が大天狗と出会い兵法を習ったという「僧正ガ谷」僧正ガ谷不動堂
僧正ガ谷不動堂

遮那王尊として祀られている「義経堂」

遮那王尊として祀られている「義経堂」

僧正ガ谷不動堂の近くにある義経堂には、義経が護法魔王尊の脇侍・遮那王尊として祀られています。奥州平泉で非業の死を遂げた義経ですが、その魂はこの鞍馬に戻ったと信じられているのです。

京都屈指のパワースポットとして知られる鞍馬山。その足跡を辿り神秘的な山の中を歩いていると、義経の伝説も本当のように感じられます。

鞍馬寺

住所:京都市左京区鞍馬本町1074番地
アクセス:叡山電鉄鞍馬駅下車、仁王門まで徒歩約3分
https://www.kuramadera.or.jp

そして承安4年(1174年)、16歳になった義経は僧にはならず鞍馬寺を出奔し、奥州に下りました。

奥州平泉へ向かう義経

義経が旅の安全祈願をした「首途八幡宮」(京都市上京区)

義経が鞍馬から奥州平泉へ出立する際に安全祈願をしたと伝わる「首途八幡宮(かどではちまんぐう)」

義経が鞍馬から奥州平泉へ出立する際に安全祈願をしたと伝わるのが京都市上京区にある「首途八幡宮(かどではちまんぐう)」です。首途八幡宮という名前は、義経の首途=門出、旅立ちに由来しており、今でも旅の安全の信仰を集めています。

承安4年(1174年)3月3日に義経が旅立ったとされることから、首途八幡宮では毎年旧暦3月2日の夜から3日にかけて「義経首途祭」が開催されています。

首途八幡宮

住所:京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町102-1
アクセス:京都市バス「今出川大宮」下車、徒歩約5分
http://www.nishijin.net/kadodehachimangu/

義経は奥州へ下る途中、元服し“源九郎義経”と名乗りました。『平治物語』では承安4年(1174年)3月3日の桃の節句に現在の滋賀県蒲生郡竜王町にある鏡の宿で自ら元服したと伝わり、『義経記』では愛知県の熱田神宮で元服したとされています。

平泉に下った義経は、藤原氏第3代当主・藤原秀衡の庇護を受けます。義経は元服後、22歳頃までの青春時代を平泉で過ごしました。

兄・頼朝のもと、源平合戦で活躍するが…

治承4年(1180年)10月、異母兄である頼朝が伊豆国で挙兵したと知り、義経は奥州から駆け付けました。頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で対面を果たした義経は打倒平家を誓い、頼朝の力となるべく、ここから数々の戦いで頭角を現していきます。

木曾義仲(源義仲)を討ち、一ノ谷の戦い屋島の戦いと活躍していく義経。そして元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いでついに平氏を滅亡に追い込みました。

壇ノ浦古戦場での源義経・平知盛像

この戦いで平氏一門は次々と海に身を投じ、幼かった安徳天皇も入水。三種の神器のひとつである宝剣「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」も海の底に沈んでしまいます。

しかしその後、後白河法皇が戦いの功績を讃えて義経を任官させると、頼朝は自分の許可なく官位を受けたことに激怒。さらに梶原景時が義経の身勝手な振る舞いを頼朝に報告したこともあり、義経は頼朝の怒りを買ってしまいます。

頼朝との対立、追討

義経は、壇ノ浦で捕らえた平宗盛父子を鎌倉へ護送し、鎌倉に凱旋しようとします。しかし義経に不信感を抱いていた頼朝は、鎌倉入りを許しませんでした。宗盛父子は鎌倉に入れたものの、義経は腰越の満福寺に留め置かれます。この地で義経が頼朝にしたためた書状が、かの有名な「腰越状」です。

大江広元を通じて書状を送り、なんとか頼朝の許しを得ようとした義経でしたが、結局許されずに京へ戻ることになりました。頼朝と義経の関係はますます悪化していきます。

義経が襲撃された「源氏六条堀川館」(京都市下京区)

再び京都に戻った義経は、源頼義以来、義家、為義、義朝らが邸宅とした源氏六条堀川館に滞在していました。館内にあった井戸と伝わる「左女牛井之跡(さめがいのあと)」の石碑が、現在も堀川通の脇に建っています。

京都の源氏六条堀川館内にあったと伝わる井戸「左女牛井之跡(さめがいのあと)」
京都の六条堀川館内にあったと伝わる井戸の跡地「左女牛井之跡(さめがいのあと)」

京都東急ホテルと聞法会館の間の脇道にありますが、筆者が訪れたときは草が生い茂っていたのでなかなか気づきませんでした。左女牛井は京の名水のひとつとして千利休らも愛用したそうですが、第二次世界大戦中に無くなり堀川通となっています。

佐女牛井の跡(源氏六条堀川館)

住所:京都府京都市下京区佐女牛井町
アクセス:京都市バス「西本願寺前」徒歩3分

頼朝は、梶原景時の嫡男・景季を六条堀川館へ向かわせて義経の様子を伺い、叔父・行家の追討を要請します。しかし義経は、自身が病気であり、同じ源氏である行家は討てないと断りました。義経と行家が通じていると感じた頼朝は、家人である土佐坊昌俊を義経のもとへ派遣します。

10月17日、頼朝の命により土佐坊昌俊は義経の邸宅を襲撃。行家も加勢し返り討ちにしたため襲撃は失敗に終わりますが、夜襲が頼朝からの命だと知った義経は、後白河法皇に頼朝追討の宣旨を要求します。10月18日に頼朝追討の宣旨が下されました。頼朝も、義経を討つべく自ら出陣します。

行家とともに頼朝追討を掲げた義経でしたが、兵が集まらず、体制を整えるために西国を目指しました。しかし途上で船が難破し一行は離散。逃亡の途中、静御前は吉野山で捕らえられ、行家や郎党も次々と討たれてしまいます。

義経はなんとか追手から逃れていたものの、頼朝に圧をかけられた朝廷が義経追捕の院宣を出すと、京都に居られなくなり、再び奥州平泉へ下りました。しかし頼りの秀衡はまもなく亡くなってしまい、跡を継いだ泰衡は頼朝からの圧に耐えられませんでした。

奥州平泉の義経堂

そして文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、平泉で泰衡の襲撃を受けた義経は、妻子とともに衣川館で自害。享年31歳という短いながらも波瀾万丈な生涯を終えたのです。

義経と武蔵坊弁慶ゆかりの地

義経にとって京都は、重要な人物たちとの出会いの地でもありました。

そのなかでも、彼に最期まで仕えた郎党・武蔵坊弁慶が有名ですね。『義経記』では、安元2年(1176年)6月に2人が京都で出会ったとされています。

義経が弁慶と出会ったのは五条大橋ではなかった

義経伝説でも有名な話のひとつに、義経と弁慶が京都の五条大橋で出会ったというエピソードがあります。

五条大橋で義経の太刀を奪おうとした弁慶が、義経に翻弄され降伏し家来になった、という話は聞いたことがあるのではないでしょうか。現在の五条大橋には、その立ち回りの様子を再現した牛若丸と弁慶の像があります。

京都・五条大橋にある牛若丸と弁慶の像

五条大橋 牛若丸弁慶像

住所:京都市東山区五条鴨川
アクセス:京阪電車「清水五条駅」下車、徒歩約1分

しかし!実は当時この五条大橋はありませんでした。ちなみに義経はすでに元服していると思われるので、“牛若丸”でもありませんね。

『義経記』では義経と弁慶は2度会っており、最初に出会ったのは京都の五條天神宮、2度めは清水寺とされています。

弁慶と初めて出会ったと伝わる「五條天神宮」(京都市下京区)

弁慶と初めて出会ったと伝わる「五條天神宮」

2人が初めて出会ったとされる場所が、五條天神付近です。

京で1,000本の刀を奪い集めようとしていた弁慶が、五條天神で残り1本も良い太刀であるよう祈願していたところ、そこを通りがかった義経と出会ったといわれています。義経が持っていた見事な太刀を奪うべく襲いかかった弁慶を、義経は翻弄したといいます。

五條天神宮

住所:京都市下京区松原通西洞院西入
アクセス:京都市バス「西洞院松原」下車、徒歩約1分

義経と弁慶 2度目の決闘の舞台「清水寺」(京都市東山区)

義経と弁慶が戦ったという京都・清水寺

五條天神での戦いで翻弄されたことを悔しがった弁慶は翌日、清水寺の山門で義経を待ち伏せします。そして再び義経と戦った弁慶でしたが、返り討ちに合い、以降は義経の忠実な家来として最期まで仕えたとされています。

清水寺

住所:京都府京都市東山区清水1丁目294
アクセス:京都バス「五条坂」徒歩10分
https://www.kiyomizudera.or.jp/

義経と静御前ゆかりの地

義経と静御前が出会った「神泉苑」(京都市中央区)

義経が愛した女性として知られるのが、京都の白拍子だった静御前です。義経は静御前と京都の神泉苑で出会ったといわれています。

義経と静が出会った京都の神泉苑

神泉苑は平安京大内裏に造られた禁苑で、「義経記」によるとここで雨乞いの舞を奉納していた静が義経に見初められ、側室になったとされています。

静のエピソードにちなみ、神泉苑では白拍子姿で舞う静の御朱印なども販売されていました。

神泉苑

住所:京都市中京区御池通神泉苑町東入る門前町167
アクセス:地下鉄東西線「二条城前駅」下車、徒歩約2分
http://www.shinsenen.org

 

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